hotcafe ほっぺた館


モケレンベンベ・プロジェクト
by mokelembembe
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あかみどきいろ紅葉たちのおしゃべり

 本日晴天なり、ほっぺたやき新作の三種や自作のかんぴょうで巻いた美味しい巾着入りスープもご用意したけど、お客様来なかったー。
考えてみれば、過去の活動でお客様0の経験したことがなかった。これまでが恵まれていたのだ。たくさんの人に支えてもらっていたのだ。
とはいえ、ほっぺた館も開いて1ヶ月で既に色んな人との出逢いがあります。
店のらくがきノート。強制にしたくないからそっと置いてあるけど、見たら書いてくれた人がいた!「炭火で焼いたonly oneのほっぺた焼!具の変化(いろいろ食べたい!)を楽しみにしています」「閉店間際に来ましたが、笑顔で対応していただきました。ご近所に心地良いカフェができてうれしいです。」だって、ああ嬉しいな。ちょっと店ほっぽりだして散歩してみよう。
 虹のしっぽには何種類もの紅葉が植わっている。葉っぱが重なった所はきれいですよ。
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姫リンゴ、小さくて種取るのが大変だけど、可愛いね。
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おや?低い所に黄金色の実が?なんと!先日発見した場所と違う所にもボケの実が!!
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慌てて前掛けのポケットに採集。思いがけない収穫あり。また酒を仕込まなくては。
秋の景色はちょっぴり寂しい気持ちを誘うけど、まだ新チャレンジは始まったばかり。
来週はまた、及部さんのワークショップきっと新しい出逢いが産まれるでしょう。
店に戻ると、取材にみえた新聞記者さんから「明日の朝刊に載る予定です」との電話。
おっと!明日はお客様0じゃなさそう?だから、気を取り直して仕込みます。(Y)
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# by mokelembembe | 2016-10-14 19:20

コロコロひょうたんのおしゃべり

 ほっぺた館のオープンイベントは、移住前からから所々でお会いしていたキーマン?とも言える結城幸司さんに、流木ワークショップを進行して頂いた。虹のしっぽがまだ知られていないのと宣伝不足で参加者は4名と少なかったが、素敵なメンバーに恵まれ和やかに、流木でフクロウを作った。結城さんのフクロウを見本に作っても、個性豊かなそれぞれのフクロウ作品が誕生したのが面白かった。ランチのほっぺたやきを皆がほおばってくれたことや、簾舞がいい所だって初めて知った!と喜ばれたのも嬉しかった。
 街の方から参加してくれた一人、はっちゃんはお父さんを亡くしたばかりだった。悲しみに閉じこもらず凄いなぁと思ったら、更にAKIRAさんのライブで葬儀を主催するという。結城さんが「AKIRAさんて表現の達人だよね。」と言ったこともありライブに行ってみようと思った。でもまだ慣れない店の後にライブへ行けるかどうか迷ってたら、後日はっちゃんから「ほっぺたやき、ライブへ出前してみませんか?」と誘いが来て、とりあえず3種10個ずつ持っていったら完売した。命を感じる温かいライブだった。集まった人達と初めて会った気がしなかった。帰りにAKIRAさんに「モケレムベンベへ」とサインを貰い、処女作という『COTTON 100%』を買った。
 
 読み始めて間もなくはっちゃんから「次回のライブでも出店しませんか?」とまたのお誘い。本に栞を挟んで、今度はたくさん持っていくことにした。AKIRAさんが元カノのユカと再会を期待する場面だった。ユカっていう名前なんだ。
 今度は休憩時間がなくあまり売れず、ほっぺたやきは余ってしまった。それをはっちゃんが買い占めてくれた。申し訳ないけどありがたく、感動のライブだった。
 感動したのは、はっちゃんの優しさだけでなくセルフストーリーを語ったケンチャンの強さ、愛らしさ!そしてAKIRAさん、桜子さん、綾子さんの歌で泣かされた。ケンチャンに何度も襲いかかる試練、支えてくれた人達の「君なら出来る」という言葉。その話を聴いたとき、耳元で「ヤヨさんなら出来ますよ!」という懐かしい声がした、気がした。
 
 地球一周の船旅のルームメイト、関西人のユカともう一人のルームメイト韓国人のソルミと三人組で、世界中の街の安くて美味しい物を食べ歩いた。知り合ったばかりとは思えない程、言いたいことを言い合える仲間に恵まれた。
ユカは1日何度か、自分の腕にそっと注射を打っていた。初めて見た時驚いた私に「元気そうでも実はこんなことしなきゃ生きられない人間がいること知らなかったんでしょ?」と言った。6歳の時に原因不明で糖尿病の一型を発症したユカ。20才まで生きられるかわからないと宣告され、珍しいケースだと外国へ連れて行かれ研究者達の見せ物にされたトラウマ、同じく幼くして発症した僅かな友達が次々亡くなっていく恐怖、酒や甘い物好きの人が発症する糖尿病とは違うのにダラシナイと勘違いされること、注射器を出した途端誤解され、駅員などに何度も補導された経験などを話してくれた。旅の途中、何度か「一通りの幸せを掴んでるヤヨさんなんかに、私の気持ちなんかわかるはずがない!」と健康な私にイラつくことがあった。ソルミが「体調が悪い時は同じ日本人のヤヨさんに当たるみたいですね。」と申し訳なさそうに言った。つかの間の家族のようなものだと思ったが、船旅が終わってからも交流は続いた。北海道、若狭、沖縄、釜山も一緒に旅した。モケレンベンベプロジェクトの二人芝居『魔法の森』大阪公演は喜んで応援協力してくれた。バイオの研究者で、芝居なんかろくに観たこともなかったユカは「想像力で見る演劇、凄く面白いすね!古代に演劇を観られない刑ってのがあった意味がわかりましたよ!また観たいもん。」と絶賛してくれた。
20才まで生きられるかどうかと言われていたユカだったが大学院を卒業し、働いて結婚もし貯金で家も買い、地球一周もゴール出来たらもう一つ奇跡を起こしたいと思ったのだろうか。赤ちゃんが欲しいと言い、旦那さんや医師と相談してある時ポンプ式の薬に変えた。しかし新しい薬がなかなか身体になかなか合わず体調は長く思わしくなかった。近くに住んでいて会っていた他の船友から「ユカが痩せてきてる」と聞き、私は意を決して電話した。「余計なお節介かもしれないけど、子どもを産むのは諦められない?授かることが出来ても、産んで終わりじゃないのよ。ユカにもしものことがあったら皆困る。私だって困るよ。」と言うと「そうですね。ありがとうございます。」と素直に言った。「ウチ働きに出るのはまだ無理そうだから、実家の畑で絶滅しそうな京野菜とか復活させようと栽培試みてんねん。」と言うから、「オモロイ!じゃあ私がおやき屋やるから、コラボ出来るかもよ!」と修行中のおやきを送って試食してもらった。「皮がちょっと堅くて惜しいっすね。でもヤヨさんならきっと出来ますよ!」と励ましてくれた。そう、私はいつも励ましていたつもりが、彼女に励まされていたのだ。
 それからしばらくして気になり電話してみると、旦那さんが出た。ユカはポンプの交換が遅れて倒れ、何日も集中治療室に入ってる、と言われ頭が真っ白になった。慎重な彼女が何故?事故だ。悪夢だ。ユカを知る船友に頼んで皆で祈った。
 どうしたことか?オペラの最中いつの間にかケンチャンとユカがダブっている。何度も奇跡を起こして生きるケンチャンの話を聴いているのに、同時にユカのことも浮かんで来る。
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 ユカは1ヶ月程闘った末、親戚全員が揃った時に亡くなった。願いは空しかったが、大きな奇跡を起こしたことを後日旦那様が話してくれた。救急搬送された後、薬を入れられたユカはすぐ回復し、お茶を飲んだり、メールもしていたという。しかし、ポンプ交換が遅れたときのダメージで既に内蔵が弱り、結局回復出来なかったのだが、そんな衝撃をくらって一度でも回復したというのは世界中前例がなく、医者は唖然としていたとのこと。モルモットにされたお返し、最期にやったんだね。
 生きている者もいない者も、繋がっている。ユカが今の様子を見て喜こんでくれてるだろうと思った。ライブの最後にAKIRAさんが「感謝したい人の顔を思い浮かべて」と言った。たくさん存在するけど、まずユカの顔が浮かんだ。ありがとう。皆さんと輪になり涙が溢れた。
 五年前の今日は船旅の途中、何してたんだっけ?帰宅してメモ帳を探し出すと、メキシコのアカプルコでソルミが船を降り、南米へ旅立った日。ユカと向き合うことになった最初の日だった。
 その直前、プールで泳いでいたらいつの間にかユカのカメラや愛用の注射器、大切な薬が入っていたバッグが傍から消えた。私は真っ青になり船中を駆けずり回り、医務室の先生が使い捨ての注射器を全部提供してくれたり、掲示板に「バッグを探して!」と記事を載せたら、同じ病気の方々が何人かいて彼女に薬を分けてくれたりした。最後の寄港地で船を降りて欲しいと頼んだが、ユカは絶対一緒にゴールしたいと聞かず、ハラハラしながら何とか太平洋を横断することができたのだ。
 彼女とはたった二年半の付き合いだったが、きっとソウルメイトだ。会っても会わなくても違和感がない。また会うに違いない。
 そういえば、続きが気になり本の続きを読むと、ユカは赤ちゃんを産んでいた。名前が同じだけで本の中、舞台はアメリカの、AKIRAさんの元カノの話だが、彼女の夢が叶ったようで嬉しくなってしまった。
そういえば、ユカに貰った瓢箪でまだ約束のライト作ってなかったんだ!思い出さなきゃいけなかったのは、あーそれか?(Y)
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# by mokelembembe | 2016-10-12 21:21

月の光と遊ぶすすきのおしゃべり

 なぜ細々とでもン十年も演劇活動なんぞを続けてきた輩が、アイヌモシリに渡って「ほっぺたやき」なんて物を作っているんだい?と、別に聞かれてはいないけれど。たまにしか書かないブログを、読んでますよ!と言って下さる方もあり反省して、今回はそこんとこを書いてみようと思います。
 モケレンベンベプロジェクトでアイヌを題材とした劇づくりに参加してくれたメンバーの中に、サズ奏者のFuji さんがいた。最初はアイヌウタリの知り合いもなかったので手探り、学校で教わらなかった歴史やアイヌ民族についての資料をシェアしたり、歌や踊りを真似してみたりしていた。そのうち彼が「アイヌ民族の料理を食べないと何もわからん!」と言い出した。料理?
唐突に思えた突然の発言だったが、音楽だけでなくトルコの人達と交流してきたFuji さんの言うことには、深い意味があるのだろうと探してみたら、東京に「レラチセ」というお店が一軒見つかった。早速メンバー揃って初めてのアイヌ料理を食べに行き、素朴な味に一同感動した。稽古の後にまた行きたいと盛り上がるも、皮肉なことにその後間もなく閉店してしまった。
 アイヌの劇づくりは何度かの試演会を重ねて本公演『流光の音をたどれ』を行うことになった。写真家の宇井眞紀子さんに弓野惠子さんを紹介して頂きお話を聞くと、若い頃アイヌに生まれたことが嫌になり、北海道を飛び出して関東で長らく暮らしていらしたが、ある時目覚め離れていた時間を取り戻すかのように学び直し、現在ではアイヌ文化アドバイザーとして御活躍されている。その、自分はアイヌだ!と再び目覚めたきっかけが、素朴なアイヌ料理を口にした瞬間だった!と聞かせてもらったことでFuji さんの言ったことを理解した。言語、音楽、踊りや着物などと同様に 食べ物は民族の大きな文化であると改めて深く。
 アイヌの劇づくりを先頭切って取り組んだ私は、途中で自分自身が何者なのかを知りたくなった。戸籍を取り寄せたが役所には80年前までのものしか保存はされておらず、両親を伴って先祖の暮らした土地の古い寺や親戚の家を訪ねて話を聞いて回った。そこまでしても結局アイヌ民族との縁などはわからなかったが、私にとっては先祖や歴史と繋がった濃厚な旅であり、それまで把握出来なかった自分のアイデンティティみたいなものが、理屈なしに掴めた感じがした。父方の長野、母方の富山、そしてまた長野と往復し、旅の道中何度か両親とおやきを食べた。父が「お袋が作ってくれたおやきは、こんなパンみたいな皮じゃないんだ。本物のおやきが食べたいな。」と言うので、帰りに善光寺近くの有名店に寄り、炭焼きおやきを食べた。おやきは縄文から続くソウルフード。先祖を辿る旅と共に記憶された。
 翌年、原爆が落ちた時に電車を運転した女学生を描いた『桃の実』全国公演を成功させ、その翌年は東日本大震災が起きたが、『桃の実』現役高校生公演、アイヌの劇公演第2弾『流光の風をたどれ』と目まぐるしく活動した。今度は新しくアイヌ料理をいただける『ハルコロ』というお店が出来たので、またFujiさんと一緒に駆けつけた。お店のお母さんが歓迎して下さり、見ず知らずの私達なのにイモシトの作り方を親切に教えてくれた。また皆でハルコロに行って公演の打ち上げをしようと予定した日に、お店のお母さんが亡くなられたと聞き愕然とした。お店の前にそっと花を、感謝と共に手向けてきた。
 それから間もなく、世界を知らなかった私は広島と長崎の被爆者の方々に勧められた地球一周の船に乗った。色々な人と色々な対話を重ねた海の上で、これから先何をしようかと考えた。
 
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 もっと人間らしく生きたいと思った。都会生まれでわからないことばかり。火を起こして料理が出来るようになりたい。もっと命を大切にしたいと思った。自分も他人も大切な価値ある命。この世は弱肉強食なんかじゃなく、自然災害が増えている中で助けあわなければ。などと考えた時にふと、そうだ、おやきを作ろう!と浮かんだのだ。
 しかし帰国して橋本フサヨさんとの二人芝居『魔法の森』を続けた合間に作ってみても、なかなか上手くいかなかった。友達の店の片隅で1か月売ってみたけど、修行が足りなかった。間もなく友達も店を閉店。片付けを手伝うと、長年愛用活躍した調理道具や食器を譲ってくれた。あたしゃ、本気でやるよ!また両親と夫と長野に、今度はおやき修行の旅へ出た。それから千葉の君津で半兵衛炭焼塾も受講した。炭焼き釜に木の枝を投げ入れていた私達に、塾長の木曽野さんが「火を怖がらないで。」と何度も言った。そのうち、アイヌはまずアペフチカムイ(火のおばあさん)に語りかけるんだっけ、と思い出したら怖くなくなった。
そして昨年末アイヌモシリへ移住。雪の日も古家の修理の合間に研究した。長野で習った製法は真似出来ないやり方だし、私が目指す味とも少し違う。そもそもおやきの作り方は各地域や家庭で違うそうで正解はなく、オリジナル製法を編み出すしかなかった。大工さん達にも試食して頂き「美味しい!珍しいし、これ売れますよ。」と言われた時にやっと自信がついた。
 とうとうhot cafe にてほっぺたやきを皆様に食べていただけることになったこの秋。北海道ではあまり馴染みのないらしいおかずが入ったおやき、膨張材を入れない歯応えのある皮のおやきは、なんとか好評。やったぜベイビー!
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またほとんどの食材が地元のもので賄えることに感動している。
夢のオフグリットは実現出来てないが、ほっぺた館にガスを引いてないことには結構驚かれる。でも「炭火焼き」を売りにしていないのは、カセットコンロや電気オーブンにも助けて貰っていることもあるし、何より炭で料理するのがもう日常になってしまったからである。炭調理は時間がかかるが、何でもすごく美味しくなる。
演劇からたくさんの出会いが繋がって、カフェ。アイヌモシリの大空の下、少しは人間らしく成長しているのだろうか。(Y)
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# by mokelembembe | 2016-09-19 23:58

秋風に揺れる夏野菜のおしゃべり

 とうとう始まりました。リアル!?hot cafe ほっぺた館。
とうとう、というのは思い出してみると『ほっぺた館』という店をやってみようかなと思いついたのが、そもそも30年前にも遡るからである。
それは何とも、人生をどう歩んで良いのかわからなかった若気の至りの儚い夢であり、現実的ではなかったのだろうと諦めたからこそこのblogの名前にして、誰とはない誰かに呟いていたのだ。
しかし、人々がふらりと集まって微笑んで帰れるような場を作りたい。それは自分が思うより真剣な願いだったのかもしれない。
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 高卒で飛びこんだ劇団は四年間で飛び出したので、私にとっては色んなことを教わった大学のようなもの。当時の先輩方には金のためになんかやらない演劇を叩き込まれたためか、いつか芝居で喰うなんて妄想は捨てた。ともかく金は別のことで稼いできた。(しかし不思議とモケレンベンベプロジェクトの活動は赤字ではないのだが)
過去やってきた仕事を数えたらもはや五十種を超えている。たくさんの役を演じてきた。日常もひっくるめた演劇の道だ!
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 これまで旅公演もやってきて、各地で心よく迎えてくれたたくさんの人達との出会いが私を作っている。その中で、いつからか色んな人から「店をやってみたらいいのに。きっと向いている。」と言われるようになっていた。本当に?それならやってみようかな。演劇の道も、実はそんな感じで歩み始めた。素直なんだか反抗的なのかよくわからない性格だ。
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 虹のしっぽで、今度は自分が誰かを迎えてみようかなと思った。父方の先祖の地、信州の縄文から伝わるソウルフードのおやきを真似た「ほっぺたやき」は母から教わった小豆の美味しい煮方を生かして、子育て時代の友達から教わったスイーツをアレンジしたり、手づくりの気取らない軽食を用意することにした。
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週末カフェをオープンして3日間、駆けつけて下さったお客様。美味しかったよ!また来るね!と口々に言って帰っていかれた。東京の片隅で夢見たほっぺた館が、意外にも北の大地で現実になったんだと実感した。
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食べ物を提供するだけではなく、夏の3つのプレイベントで映画上映や朗読会を試みた。続いてアイヌに興味を持つきっかけをくれた結城幸司さんの流木ワークショップ、以前私に「あなたはもうオリジナル街道を爆走するしかない!」と助言(その一言がチンチン電車で公演にチャレンジする勇気を後押し)してくれた及部克人さんの布絵ワークショップと、イベントを続けていく予定。
小さな畑にだって、美味しい実がちゃんと成ってきているのだ。(y)
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# by mokelembembe | 2016-09-14 23:42

春のおしゃべり

ああ 春が来たのだ
庭にまだ雪が積もっていても
地面が現わになった所には
いつの間にか出てきた
おびただしい数の蕗のとう
色とりどりのクロッカス
日に日にその合唱は大きくなって
窓を閉めても声が聴こえてくるようだ
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ああ これが春なのだ
夕暮れ時が遅くなり日が長くなったとか
桜が街の景色を変えてくれてやっと
春に気づくことしか知らなかったが
桜は咲いていなくても
山あいには圧倒的な春がやって来るのだ
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ああ これが本物の春なのだ
北国はいつまでも寒くてお可哀相にと
かつて私も思っていたが
雪山の中にはぐんぐん緑が湧いてきて
花の蕾も着々と膨らむ生命の勢い
春 春 春
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ああ これぞ春なのだ
かつて故郷東京も
春はもっと豊かであったろう
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コンクリートに閉じ込められた世界の中に
たくさんの春があったろう (Y)
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# by mokelembembe | 2016-04-11 16:44

ちらほら小雪のおしゃべり

 北海道へ怒涛の移住をしてから3ヶ月が過ぎました。
あまりにも忙しない移住だったため、東京での生活が早くも遠い過去に感じています。
 
 一年余前、都電で十年ぶりに浦島太郎を題材とした芝居『煙のむこう』を演じたが、その時はまだ年内に移住することになるとは思ってもいなかった。ところが春から場所を探して動き始めると、周囲の色々なことが急速に動き始めた。
夏頃突然、芝居の道具や車両を置かせてもらっていた近所の実家が老朽化で解体する話が持ち上がった。それとほぼ同時期に、北海道の不動産屋さんから私たちに合っているのでは?という物件を紹介され検討。下見や他の物件も見に行ったり来たり、両親の移転準備、独立しなければならなくなった息子の移転準備も、と同時進行の目まぐるしい日々を送った。
私たちは予算もないのでセルフビルドで小屋でも建てて住もうかと話していたのだが、他に然るべき場所も見つからず紹介された所に移住を決め「虹のしっぽ」と名付けた。一つ一つゆっくり別れを惜しむ間もなく、下町荒川で「モケレンベンベ虹のしっぽパーティ」を開催。合わせて、浦島太郎や9条のご縁でお世話になったブラジルの岡村淳監督に上映会もしていただき、関東で交流して頂いた方々に挨拶するのが精一杯だった。
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 師走に小さなウサギと一緒に引越した先は、真っ白な雪に埋もれていた。「虹のしっぽ」が豪雪地帯であることは、正直あまりわかっていなかった。その上、古家は三年近く空家だったため隅っこには真っ黒くろすけが住み込み、あちこち傷んでいる状態。今度はリフォームと雪かきの毎日が始まった。しかしそれは忙しくても楽しく、疲れたら近所の温泉へ飛び込むと、また翌日は元気に働けるという健康的な毎日。東京のマンションの窓から見えるのはビルばかりだったが、北海道の窓には清々するような雪山と自由に揺れる木々ばかりである。病気がちだったウサギも元気を取り戻して飛び跳ねた。
 無我夢中で働いている間に、ふと東京のことを懐かしく思い出す。昨年頭から時々預かっていた少女は、どうしているだろうか。闘病中のママと数ヶ月会えなかった間は覇気がなかった。我が家のウサギと話をするしか楽しみがないなどと口走っていた。ところが、ママが危機を乗り越え自宅に戻り、しばらくは安静状態だったが日に日に元気になり、私たちの移住直前に少女を送って行った頃にはもう、パジャマではなくジーンズで迎えに出るようになった。
ママの強さにも感服したが、驚いたのは少女の変わりようであった。ママの回復と並行して、目に見えて明るく生き生きとした表情になっていった。その大きな変化を見た時に、子どもにとって母親の存在がどれほど重要なものかということを改めて教わった想いだ。その少女もこの春、小学生になる。なんと私の母校に通うらしい。別れ際「もうランドセル買ってもらったの?」と聞いたら「まだだよ先輩!」と言っていた。
いよいよ背負う時が来たんだな。遠くから、後輩の幸せを願うばかりだ。
 
 私たちは北海道でも色んな人や色んなものに出会うでしょう。また新たな虹をかけていこう。この三ヶ月間の大空にもう二回も本物の大きな虹を見ました。どうやら「虹のしっぽ」のネーミングに相応しい場所であるらしいのです。(Y)
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# by mokelembembe | 2016-03-23 22:20

ポニョのうた

施設に預けられている子の里親になるのは難しいけど、時々遊ぶくらいならと児童相談所にボランティア登録したのは随分前、下町に戻って間もなくだった。
しばらく待っても何の要請も来なかったので、今度は救急の訓練なども実費で受け、近所の親子をサポートするボランティアに登録してみた。
しかしそちらも全くオファーが来ず、いつしか自分もそのことを忘れ、芝居やバイト、なぜか舞い込んだ老人施設での書道講師などで忙しく日々を送るようになっていた。
 
 ところが東日本大震災の年を境に、両方からチビッ子を預かって欲しいという連絡が次々入って来るようになった。な、何で急に!?などと考えている余裕もなく、公演の合間を縫って要請に応え、様々な理由でこの4年ほどの間に、何人ものチビッ子達を預かってきた。
 最初の子は、両親揃って友達の結婚式に出席する日だけ預けられた生後半年くらいの赤ちゃん。赤ちゃんの抱き方もだいぶ忘れてしまったので、ひたすら泣いているかと思ったら、絵本を読んであげると泣き止んで、ちゃんと聴いていたのでビックリ。そのことを両親に報告すると、後日「初めて預かって頂いたのが、あなたで良かった。」と手紙が届いた。
その親御さんの性格が特別良かったのかと思ったら、次に預かった子のママもわざわざお礼を届けてくれて「あなたに預かって頂けてラッキーでした。」とカードが添えてあり驚いた。

 かつて両親は、感受性の強すぎる私を「この娘は将来結婚できないだろう。」と思っていたそうである。ところがモノ好きな男がいて結婚でき、何とか息子を一人授かった。しかし兄弟を産んでやることは出来なかったし、やはり母性というものが足りないのだろうと思っていた。
それが、ダメ母ちゃんなりに育てた息子が案外いい人格に育ってくれたお陰で、子育てがそんなに向いていない訳ではないのか?と思えるようになった。そして他人を手助けする喜びを知り、元来ワガママな自分にも、出来ることで役に立てたらと考えられるようになったという、そんな程度。不安要素が増えた世の中で頑張っているステキなママ達に、逆に感心するばかりである。
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 老人施設の書道講師は4年間務めたが、路面電車の全国公演が決まった時、皆さんの筆を休ませてしまうのは悪いので他の方に代わってもらった。ここでの経験も、書道でボケの症状が軽減することなどを目にし、感動を色々もらった。最後は、皆さんが餞別を包んで送り出してくれた。車椅子から何度も転んで怪我しても、私の講座を楽しみに復活して味のある作品を書いてくれた90代の愛弟子が、別れの時私に言った。「先生の新しい船出ですね。」
先生と呼ばれるのは自分にそぐわないが、この時は悪くないと思えた。人生の大先輩から先生と呼んでいただける機会が誰にもあるわけではないし。
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 愛弟子の言った通り、確かに現在は数年前と違う日々を送っている。

 最近預かっている子は、兄と弟が生まれつき障がいを持っており、更にママが闘病中。まだ5歳とは思えないくらいしっかりしている少女なので、始めは驚いたが、転んだりした時などに赤ちゃん返りをしてしまうことがわかった。本当は甘えたい気持ちが爆発してしまうのだろう。だっこ、だっことただ泣いてしまい、普段の気丈さはどこへやらという状態になってしまう。抱いて歩いたら重すぎて翌日腰痛になった。以来やたら甘えてくるようになり、迷ったが「抱っこは無理!」とハッキリ伝えたら、納得してヒザに坐って来るようになった。話せばわかる落ち着いた子。ママが対話を大切に育てたのを感じる子どもである。

 手をつないで歩くとき、彼女はいつもポニョの歌をうたう。なぜだろうと考えて、そういや似ていることを発見。本人は「ずっと前からパパやママに言われてるもん。」と当たり前のように言った。
ポニョは映画館で観たけどもう忘れたちゃったな~と笑うと「もう一回観た方がいい!」と彼女が言った。「あのお話を忘れちゃってるなら、もう一度観て。」と妙に真面目な顔をした。
 夫がある日「ポニョは観たことないな」とDVDを再生したので、私も一緒に観た。すると、津波に飲み込まれる町、避難する人たち、大漁旗、家族を探す船、今どれも身近な現実と感じている自分が、映画館で観た数年前は遠い物語としか感じられていなかったことが分かった。そして今度は、どこか呑気だった過去を遠く感じた。
 後日、彼女に「ポニョ見たよ」と言うと、嬉しそうな顔をした。
「どうだった?」と聞かれ、つい「ポニョのお母さんて大きいんだね。」と口に出してから、失敗した!と思った。でも彼女は「そうだよ!ポニョのお母さんはすっごくおっきーいんだよね!」と更に嬉しそうに言った。彼女の中で、何ヶ月も会えないママが大きく大きくなっているのだろうと感じた。
私が勝手に登録したボランティアだが、少女が来る日は家族も協力してくれるようになった。既に成人した息子も「お兄さん」と慕われ一緒に遊んでくれている。
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皆で、どうか彼女とママが早く会えますようにと、心の底から願っている。(Y)
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# by mokelembembe | 2015-07-11 09:21

ちらほら咲き始めた小梅花たちのおしゃべり

 2015年の鏡も開き、日本が戦争をしなくなってから70年の春が来ました。
爆弾が落ちてこない青空の下、戦後生まれの私達は笑いながら育ってきたが、現在、放射能という見えない爆弾によって被爆させられ、更にまた戦争をしたがっている金の亡者達が、あらゆる命を脅かしている。  
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 こんな状況の中、つたない表現者の私達は昨年、ふたり芝居『魔法の森』で、西荻窪バルタザール(東京)、羽根木プレーパーク(東京)、赤磐石相小(岡山)、広島ギャラリーSORA、こども劇場笠岡センター2階(岡山)にて、3年目の旅を展開した。岡山は、福島原発事故の影響で移住した人が最も多いそうだが、本当に穏やかで良い所。景色を見ているだけでも癒される土地で、私達の芝居を観て「癒された」というご感想をたくさん戴き、旅公演してよかったと思った。
 広島は、ネットで見つけたギャラリーだったが広さも雰囲気もぴったり、平和公園の近くで、あの原爆と原発事故が収束できていない現状が繋がっていると痛感しながら演じた。昼と夜の公演の合間に美味しいパンを探して歩き、偶然入ったアンデルセンが、数少ない現存の被爆建物だと聴き驚いた。アンデルセンで買ったパンを食べて臨んだ夜公演では「戦争を語る場面に迫力があり、強く印象に残った。」とご感想をいただいた。
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 『魔法の森』の旅の後、昨年は2004年にスタートした~チンチン電車で心の小旅行~シリーズが10周年ということや、最近出会った人から電車公演を観てみたいと言われることもあり、それ以前に10年経って色々なことが巻き起こっている中で、約30名の方々の想いを繋げて作ったシリーズ最初の『煙のむこう』を演じてみたいと思った。大急ぎで準備し、電車が年内に1回しか借りられなかったので「1回だけ公演します」とお知らせしたら、あっという間に予約が一杯になった。慌てて年をまたいで追加公演の電車を借りた。
 
 

  10年前、それまで私達が劇場でない場所で小さな芝居を作り続けてきたことの集大成のつもりで『煙のむこう』を公演した。これを誰も面白いと言わなかったら、芝居など一切やめようとまで私は心に決めていた。ところが逆に予想以上の反響があり、それなら次、また次と新作も生まれ、戦争などの重い題材にも取り組み全国公演も果たした。いつしか「社会的な劇団」などとレッテルを貼る人も増えたが、私の想いは常にひとりひとりの命に焦点を当てている。劇団だという意識もない。
 

  10年ぶりの『煙のむこう』を観た人の反応は、10年前よりも明るかった。「今この作品をやる意義が大きい。」「辛い内容もあったけど、元気が出た。」「また頑張ってみようと思った。」「自分の物語みたいに感じた。」などなど。またまた予想以上の反応で驚いたが、それは私達が10年前より強く、政府が市民を無視し続けている現状の中で闘っていると強く意識しているからだと思った。大地震、津波、原発事故を境に、深く傷つきながらも、くじけずしなやかに生きたいと考え続けているからこそ、命を語る『煙のむこう』を受け留められるのだろうと思った。

 また、華やかさを排除したシンプルな公演に、遠くからも足を運んでご乗車くださる方々の感性に、演じた私自身が感動した。これからも表現の多様性を探っていきたいと、力をいただきました。すべきは殺し合いではなく、生きるエネルギーの交歓。我らは地球市民だー!(Y)
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# by mokelembembe | 2015-01-13 12:32

ミンミンぜみぜみの賑やかなおしゃべり

 2012年から始まった『魔法の森』公演の、秋の旅に向けて準備が整ってきました。10月に中国地方の赤磐、広島、笠岡で連続公演をします。いよいよ始まるぞ!という季節の中で、セミたちが「がんばれ!がんばれ!」と応援してくれています!?
小さな喫茶店からスタートしたこの作品は、これまで色々な方との出会いを辿りながら、北海道から九州・鹿児島の様々な場所で公演を続けてきました。
橋本と及川、藤沢とがひょんなきっかけで再会し、一同がゆったりとした「クマのプーさん」の世界を愛していたこと、今必要なのは想像力!という認識を共有しただけで起爆したプロジェクトでしたが、実在したクリストファー・ロビン本人の手記を読んでみると、その中には戦争のことや、親子、夫婦の関係、生業や生きていくことの様々な大切なことが盛り込まれており、それを元に七転八倒の稽古を繰り広げ、自分たちが考えていた以上に深い作品が生まれました。
感想は様々ですが、「演劇を観てこんなに心の奥底を揺さぶられたことはない。」「なぜか幼い頃の記憶が、鮮明に蘇ってきた」というものが各地で多数寄せられました。

 橋本フサヨはパントマイムやかっぽれという身体表現をしてきた方ですが、この作品ではセリフありのロビンの妻も演じており、新しいチャレンジをしています。本人的には女優デビューのつもりかもしれませんが、風貌にピッタリのプー役も演じています。
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一方、藤沢弥生もこれまでに経験のない難しい表現に四苦八苦しながら、幼い頃から有名人になってしまった悩みと向き合い真摯に生きたクリストファー・ロビンと重なりあうように、悩みつつ演じて来ました。
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そして私達自身のおいたちや人生とも向き合わざるを得ないような機会も多々あり、これも稽古開始当初は予想外の展開でした。
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 なぜ広島の原爆を演じてきたあなた達が「クマのプーさん」なんだ?ふざけてるのか!と、怒って観てくださらない方もいらっしゃいました。しかし、私達の想いはずっと変わらず、今こそこの作品の中に込めた様々な大切なものを伝えたいと話し合い、今年もこの公演を続けることにしました。史実を伝えるための作品には仕上げていないので、説明不足と感じる方もいるかもしれません。
でも、中には「わからないから何回も観ている!毎回違った発見があるから、何回でも観たい。」というお客様も在ります。
また、先日広島原爆の翌日に突然電話をくださった方は「そろそろまた広島へ来ていただけないですか?」というお問合せでした。ちょうどこの秋に参りますが、原爆の内容でもないし電車での公演でもありませんが。とお伝えすると、「もしかしたら評価が変わるかもしれませんが、広島にまた来てくれるなんて嬉しいー!思い切って電話して良かったー!」と言われました。その方は視覚障がいをお持ちだそうですが、数年前の私達の公演が忘れられないと言ってくださり、とても励まされました。
演劇の楽しみ方は私達が思う以上に様々だと、小さな公演に足を運んでくださるお客様からいつも教えてもらっています。また新しい出会いにワクワクします。(Y)
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# by mokelembembe | 2014-08-11 17:14

氷のような月明かりのおしゃべり

 あけましておめでとうございます。には新しい年の日が随分過ぎました。
年末には、乳酸飲料配達員を40年も続けた元気な叔母が亡くなり、年明けには、同級生の集まりで盛り上げ役だった幼馴染が亡くなったことで寂しくなったけれど、泣いてばかりもいられない!命ある間どう生きるか?とあらためて身が引き締まる年末年始でした。
 
 時は常に流れている。変わっていくことをどうしようもないと思うことはあるけれど。自宅の窓を開けて街を見渡すと、おいおい、変わり過ぎじゃあありませんか!?と目を疑った。

 現在のマンションに引っ越してきたのは6年前。その前は近所にある実家の5階を間借りしていた。息子も大きくなり思春期で部屋も欲しがり、手狭になったため借家を探した。しかし希望の物件は見つからず、不動産屋に勧められ、妥協して引っ越した。
 当時すでにビルだらけではあったが、ビルとビルの間から、関東を囲む山の稜線が途切れ途切れにもグルリと見渡せることには喜んだ。あれは秩父の山?ちょっと方角が違うかな?大きく見えるのは、浅間山かなあ?違うか?などと話すのも楽しかった。実家は5階建てでもう少し低いので、屋上にのぼっても山は見えなくなっていた。希望通りではなかった引っ越しが、自然を感じられることで前向きにさせてくれた。

 山だけでなく、ビルの谷間の瓦屋根が見えるのも、安心感を与えてくれた。それが減っていく速度がどんどん増したのは、スカイツリーがそびえてからだろうか。スカイツリーだけはなぜか根元から見える。日替わりで色を変えたりしているけれど、美しいと思ったことがない。殺伐とした、まさに都会のジャングルの風景になってしまった。
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 窓から見える景色の中で、私の楽しみは一本の桜の木だった。ちょうど交差点の向こうで良く見え、日当たりが良い場所だからか枝振りが他の木よりも立派だった。春、夏、秋、冬の四季の移り変わりを、都会でも実感させてくれる大きな存在だった。桜の街路樹がこの地域に植えられたのは、私が小6の頃だった。この数十年、ともに成長してきたと言える。

 それがある日見るとなくなっていた。道路の両側に大きなマンションを同時に建設するらしく、そのために?さっさと伐採されていた。物言わぬ切り株が、道路際に悲しく残されている。  
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 左側の向こうに見える4階建の屋上には、いつも一匹のビーグル犬が遊んでいて、それを眺めるのも楽しみだった。ある日は、カラスに囲まれて危ない目に遭っていたり、ある日は、全部の足を開いて硬直させ動かず、死んでいるのでは?と心配していると急に動きだしたり(これは何回もあったから、その犬の癖らしい)、
雨に打たれてしょんぼりしていたり、かといって、飼い主は何をしているのか!?と思うと、入れ替わりで家族がキャッチボールをしたり抱きしめていたり、幸せな気持ちを与えてくれたものだ・・・
それも、もうすぐ見えなくなりそうだ。

 同時に建設中の両側のマンションの敷地には、かつて小さな商店が並んでいた。
八百屋さん、薬屋さん、ラーメン屋さん・・・私の子どもの頃は、そういう小さなお店や家内工場がひしめき合う街だった。現在かろうじて残っている個人商店で買い物をするように心がけているが、大手スーパーに押されてどんどん少なくなっている。

 毎日、建築の騒音と作業員の怒鳴り声に悩まされている。寒い時期で、窓を閉めているのがせめてもの幸いだが。
 もうきっと、私達はここに長くは居ないだろう。
その時、その時、気持ちが動く方へ進んで行くしかないのだ。(Y)
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# by mokelembembe | 2014-01-24 16:35


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