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モケレンベンベ・プロジェクト
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はたし状!?

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この季節、息子がの誕生日は、手作りケーキを作ってもイチゴが手に入らず、またケーキ屋さんのもイチゴはほとんど甘味がなくて、困ったことを思い出す。

その後、さくらんぼだのキウイだので工夫して、毎年祝ってきた。今年、その息子が二十歳になり、盛大に祝ってやろうかと思ったが、友達と遊びに行ってしまった。
大人になったということ?などと思いながら、待ちに待ったものを開けた。息子が小学6年生の時に書いた手紙である。

大きな封筒には学校の先生から「お父さんお母さんへの手紙は、どうぞご覧下さい。もう一つは二十歳の自分への手紙なので、保管して下さい。」と書いてある。
かつて近所の友達は皆「育ててくれてありがとう。とか書いてあって泣いた!」と口々に言っていた。ところが、うちの息子は勘違いして両方とも二十歳になった時に読むものとして書いたから、すぐに読んではいけないという。
仕方なく本棚にしまい込み、この日を楽しみにしてきた。

いよいよ大きな封筒を開けて手紙を取り出す。
一通には「家族のみなさんへ」、もう一通には何と「はたし状」と書いてある。未来の自分に喧嘩を売っているのか!?

ドキドキしながら家族宛のを開けてみる。夫に先に読んでもらうが、微かにニヤニヤしただけだった。どれどれ?と引ったくり目を通すと「ともかくみんな元気でいてくれることを期待しています。」というアッサリしたものだった。
すっかり拍子抜けしてしまい、息子の性格がよくわからなくなった。
翌日、息子が帰宅してから「はたし状」も読んだが、マンガ家になる夢を捨てていないか?ということ以外は「今縄跳びで首をぶつけた」とか「もうすぐ引っ越すのは嫌だ」とか「こういう手紙は好きじゃない」「二十歳まで生きてるかわからない」とか、何だかグチっぽい内容だった。

息子も「一体どこが『はたし状』なんだ?」と言って苦笑した。本人もよくわからないみたいだった。(Y)
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by mokelembembe | 2011-07-13 16:05

10数年ぶり仙台へ

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格安のバスがあると知り、思い立ったが吉日。仙台へ向かった。

東北へ行ったのは、せんだいメディアテークの開館直前に、M美大O教授の誘いで職員研修ワークショップを進行しに行ったのが最後となっていた。

埼玉で知り合った友人が、その後仙台へ引っ越して行き、開館したメディアテークの賑わいも見たいし、またすぐ訪れるつもりでいた。しかしなかなか機会が掴めず、10年以上も経ってしまったのだ。

 バスは予定より早朝に仙台駅へ到着した。街は静か。多少修理中の建物もあったが、すでに回復していた。
どの店も開いてないし、仙石線に乗り塩釜まで行ってみた。
ホームから見ただけだけど、港は穏やか。瓦礫の山もポツポツだった。

迷ったが、遠くから眺めただけでは何もわからん!と折り返して陸前高砂で途中下車し、タクシーで被害の大きかった荒浜地区へ連れて行ってもらった。

運転手さんは始め、ちょっと嫌な顔をしたけど「テレビで見てるだけだ」と言うと「いいですよ」と案内を引き受けてくれた。

駅からすぐの地点で「水はここまで来て、工場から流れて来たビールや蒲鉾が民家にプレゼントされた」と運転手さんが笑っていた。
信号を右折する所で目の前に、おびただしい数の白鷺が木々に群れていた。「なぜこんなに居るの?」と聞くと、浜の住家が津波で無くなってしまい、ここに来ざるを得なくなったとのこと。
そこが「プレゼント」を流出させたビール工場だった。運転手さんも、ここで大地震に遭遇したそうだ。笑えない雰囲気になった。
その先に進むと、巨大津波の威力を見せつけられる光景に一転。道路沿いに大きな工場が立ち並んでいたが、元が何だったのかわからないほどバラバラ。外壁は猫が引っ掻きまくった跡のように、ベラベラに裂かれてぶら下がっていた。

「工場の後には、民家があったんですよ」と言われ、信じられなかった。「何もない見えないけど?」と聞き返すと、入ってみようと工場裏に進んで行った。
町の小さな路地だったのであろう道。たくさんの住居跡が広がっていた。
その上に、電柱がバタバタと倒れていて、紙屑みたいにクチャクチャになった自動車や、家々の生活用品などが散乱している。
ぬいぐるみなどが見えると、ちびっ子もいたのかなと胸が痛くなる。
アスファルトはめくれ、太い松の木も倒れていて、その破壊力に愕然とするばかり。
それでも、この四ヶ月間相当なスピードで片付けたそうだ。直後はもっとめちゃくちゃで、見られた状況じゃなかったそうだ。
運転手さんが寂しそうに「ここは私のお得意さんがたくさんいた所。有名な湿地があって、さっきの白鷺たちはそこが住家だった。魚を食べさせる料亭があったりしてね。」と言ったので、「綺麗な景色だったんでしょうね。」と私が言うと、「そりゃあもう!」とのことだった。
家ごと、車ごと流された人達が暮らしていた場所には、穏やかな日々の温もりの気配がぼんやりと残っていた。
写真を・・と言いかけたがとても撮れなかった。運転手さんは車を止めず「我が家も風呂が壊れて修理に百万かかる」という。被災地の苦悩は計りしれないと痛感した。
物見遊山で来やがってと思っていたかもしれないが、車を降りる時「見たことを伝えて下さいよ。」と運転手さんは言った。

メディアテークに寄り、ワークショップの際担当だったUさんに話を聞いた。幸い施設内でケガ人もなかったが、しばらくは安全な場所へ逃げることばかり考えたという。
しかし事態は長期戦とわかったら、施設運営を充実させようと腰が座ったそうだ。凄い!
開館前のあのワークショップは職員にとって力になった!などと言ってくれて、少しは役に立てたのかなと嬉しかった。
メディアテークは市民のための情報発信拠点として今やしっかり根付いている。

電車とバスを乗り継ぎ、友人の家へ移動。積もる話は尽きないが、末っ子がまだ小さいため夕方は幼稚園へ行かないといけない。限られた時間。その間にもグラグラ、余震が二回あった。

友人の実家は三陸で、普段から交通が不便な所だったが、海は美しく、夜の星は数え切れず、食べ物は豊富だったそうだ。今回の災害でご実家は崩れてしまい、町も瓦礫の山と化してまだ手の施しようがないという。
無事でいてくれたお母様も他の地に避難。「再建は諦めた」と弱気になってしまったそうだ。

彼女達もしばらくは学校の体育館で避難していたが、教室が壊れてしまったから今度は子供達がそこで授業を受けているそうだ。しかしあまり集中できず、近くの学校に短期間でも間借りしてはどうか?しかし離れた学校までの送り迎えはどうする?期間限定でうまくやれるのか?など、意見が割れているそうだ。
近所のお母さんが相談に来て、採りたて野菜を玄関に置いて行った。
そのおすそ分けと地元のお菓子を貰い、来た時より太った鞄を背負って私はまたバスに乗った。
どこまでも手を振る年下の友人は、つい泣いてしまうと言っていた。でも私にはたくましい母ちゃんに見え、その姿に励まされて東京に帰った。

生きてる限り、ちゃんと生きたいと改めて思った。(Y)
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by mokelembembe | 2011-07-08 16:39


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